芋蔓読書

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理屈は理屈 神は神


〜芋蔓〜生きるとは、自分の物語をつくることから〜


SF作家であるかんべむさし氏が、金光教に入信するに至った経緯などを書いた体験記、になるのでしょうか。

あの方(サトウサンペイ)に「ドタンバの神頼み」という、ご自身の信仰体験をユーモラスに紹介した、とても読みやすい本があるんです。
サトウさんのこの本には、「信じる者」特有の押しつけがましさがなく、好印象を得ていた。
たとえば、「私が信仰している宗教には」とか、「中之島近くのT教会」、「銀座2丁目のG教会」といった書き方がされており、本文中にはその実名が出てこない。それらは、巻末で注記されているだけなのである。


いやまったくそのとおり、上記のことがこの本自体にもあてはまりますよ。
この本には、「金光教」で検索した結果自然とたどりついたのですが、読み進めても、著者が何の宗教に入信したのかはずーっとふせられたままで、著者が明らかにしたくない、と思っている内容が、検索でひっかかってしまうというのは問題なのでは?と思ったら、サトウサンペイ氏とまったく同じで、あとがきみたいなところ、つまり、巻末で明らかにされたのであった。
ちなみに、サトウサンペイ氏の著書とは、上記のような書き方が似ているだけでなく、主旨もほぼ同じといってよい。
どちらもおもしろいですが。
しかし、これはよい書影。帯にサトウサンペイ氏の絵がついているから、これで誰だかすぐ分かる。


入信のきっかけのひとつ、というか、きっかけよりまだずっと手前のところ。

断続的ながら、特定のテーマを追って読み続けてきた本もあり、その一例が願望達成、自己実現の分野である。
願望達成法は、先に書いた三経験(願いがかなった例)によって興味を覚え、ものごとを成功に導く意識システムが知りたくて勉強を始めた。
また自己実現法は、心配症で抑うつ基質の自分が嫌になることも多いため、これこそ内向性の証拠であるらしいのだが、書籍で学んでその改善をはかるべく、読みだしていた。
すると、どちらも想像力や潜在意識の活用が軸になるのだとわかり、そこからおのずと、その点に照らしての取捨選択が始まった。


私はこういう考えが希薄で、超能力をつけたいという希望もないので、宗教とは実践である、ということは分かっていながら、なかなか実践には取り組めないのであった(宗教の目的は願望達成、自己実現、超能力の獲得ではないのですよ!>自分)。

信話集には信心の稽古という言葉がよく出てくるのだけれど、読みだした当初はこれが腑に落ちなかった。
(略。野球の知識があるだけではグラウンドに入ってプレイはできないという話)
「そうか。信心も、知ることや見ることではなく、することであり、観客や素人解説者になることではなく、プレイヤーになることなんだな。だから当然、何らかの練習も必要になるというわけか」
「知る」が知識の獲得、「わかる」がその内容に対する理解と納得だとすれば、それを実行「できる」域にまで持っていく。そのとき、信心と生活とを別にせず、日々の暮らしや仕事に折り込み、それらの活気と充実をめざしてく。
そういう稽古であるらしかったのだ。


無私無欲を目指して稽古するのだとおもいきや、全然違う。

人間は生まれ落ちるときから欲がある。しかし、最初は母乳を求めるだけの欲ただひとつだった。それが、もの心つくに従って、「あれもほしいこれもほしい」となるのです。信心もそのとおりです。はじめは「家内安全商売繁盛」でしまいだったのが、一年二年と信心が進むにつれて、十、二十、三十と願いが増えてくるのです。これが本当です。


信心をの稽古をしたら、望みは家内安全商売繁盛方面から世界平和方面へ行きそうなものだけど、逆なのか。
かんべむさし氏は、当初の「願望成就」という観点から、こういった金光教の教えがしっくりきたのかもしれないが、私にはここが非常に難しい。
願望はいろいろあるけど、神様にいちいちいっちゃいけない気がする。欲張ってはいけない気になる。
だからといって金光教に興味が持てないわけでは全然なく、いやあ、これは入信したくなる気持ちが分かる!と思った。
天理教もいいなあ、と思ったが、それはとっても明るいところ。天理教についてはいろいろ書きましたが。
「教祖様」 参照)
金光教がいいなあ、と思ったのは、とってもやさしいところ。
教祖ではないが、宗教的カリスマと直接対面できて、そのカリスマが神様ととりついでくれる。私のために祈ってくれる。


いいなあ、と思った例。

信者が帰るとき、先生(安太郎先生)が「さよなら」と言ってくれる、その一言にまことに情がこもっているので、皆それを楽しみにしていた。
けれども別の信者の願いを聞いているときなど、挨拶されても返せないことがある。すると帰宅してから、今日は「さよなら」を言ってもらえなかったと、泣くものが出てきた。
仕方がないので、あまり情のこもらない「さよなら」が言えるよう、稽古したのだという。


かんべむさし氏が入信したころにはすでに安太郎先生はおられなかったようですが・・・。
そしてもはや金光教は関係ないといえば関係ないというか・・・
そんなことないですよね、金光教の実践(?)のなかで、この人徳を身につけられたのでしょうから。

私の信仰しているところの宗教は、だれでも、いつでも「教主さま」にお目にかかって、話を聞くことができる。”だれでも、いつでも会える教主さま”が、朝の4時から夕方の4時まで座り続けて、取次ぎをしておられる宗教というのは、他にはそうないだろうと思う。
(ここだけサトウサンペイ「ドタンバの神頼み」より)

金光教についてはこの2冊でかなり満足したのですが、聖典は読んでおくべき?
安太郎先生のお話(湯川安太郎信話)は、amazonにはないが、金光教の教会で取り扱いがある。通販もある様子。



金光教」で検索したらでてきた、日本の新興宗教の聖地巡りのルポ、
  〜芋蔓〜日本ばちかん巡りへ〜