芋蔓読書

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日本ばちかん巡り (その1)


〜芋蔓〜生きるとは、自分の物語をつくることから〜
〜芋蔓〜理屈は理屈 神は神から〜


金光教を検索していたら出てきた。
日本における宗教団体の聖地を訪れたルポルタージュ
この本の中で、訪れた聖地は下記のとおり。

オウム真理教―六年目の夏
天理教おぢばという名の磁場へ
金光教―人もたちゆき神も立ちゆく
大本―霊界二都物語
世界救世教―あまりに天国的な
真如苑―霊能者のいる秘密の花園
善隣会(教)―おすがり王国の空高く
崇教真光―種人よ起て手をかざせ
天照皇大神宮教―「踊る宗教」歌説法の聞こえる里
出雲大社神在月の浜辺
辯天宗―「走り辯天」の春
伊勢神宮―ご遷宮の夜が来るまで
生駒山系の神々―済州島は八百キロの彼方
松緑神道大和山―北の聖共同体
いじゅん―琉球にミロク世の風が吹く

(目次より)


もはや当初の金光教への興味からは離れ、単におもしろそうだから読んだ。
前に読んだ五十嵐さんの「新宗教と巨大建築 2007/6/9記事参照)」も同じように新興宗教の聖地を巡っていますが、五十嵐さんのは建築、こちらは場・土地を訪れるというより、人との接触が印象に残る。
接触っておかしいか。ふれあい?

このルポルタージュは、かならずしも宗教そのものへの関心を出発点にしているわけではない。宗教はあくまで一つの切り口であって、私の問題意識、というとおおげさだが、当初の関心はべつのところにあった。
日本は単一文化的な国だというが、本当にそうなのか。私たちにはよく見えていないだけで、実際はけっこう多分化的なのではあるまいか。
(略)
そして、こうした宗教系の文化マイノリティーたちは、日本の各地にそれぞれの「バチカン」をつくり、そこをそれぞれのよりどころにしている。したがって、日本のなかには、ローマのバチカン市国のような、地続きだがその本体とはまた別の、小さな国々がたくさん存在する。これが、連載のタイトルを「日本ばちかん巡り」とした理由でもある。この「ばちかん」には、むろん宗教の本山という含意もあるが、私のなかでは、国のなかの国という意味あいのほうがむしろ大きかった。
(はじめに)

6年がかりの異文化体験は、いつも私を楽しませてくれた。しかし取材にこぎつけるまでの段取りもそうだったわけではない。けんもほろろに拒絶する教団、マスコミと聞いただけで門前払いをくわせる教団。これがむしろ普通で、二つ返事でオーケーになるところはまずない。日本のジャーナリズムが、これまでこの「異文化」をいかに冷遇し、しばしば敵視してきたか。そのツケを、期せずして払わされた格好だったが、そうしたなかで、あえて取材に応じてくれた各教団の度量はたたえられていい。
(はじめに)


でしょうなあ。
チャレンジしたけど断った教団ってどこなんでしょう。


芸術新潮」で1990〜1995年に連載されていたもので、この単行本の出版は2002年。そして、今知りましたが、文庫化(日本ばちかん巡り (ちくま文庫))もされているのですね。
しかし、雑誌掲載は今から20年も前のことなので、だいぶ雰囲気は変わっているのでしょうね。
というか、雑誌掲載から単行本化までに10年前後経っていて、この間の変化もかなり大きい様子。


世界救世教の章の最後には、教団の広報部の文書が掲載されている。
雑誌掲載時(≒取材時)にはお家騒動中で、単行本化の時期には3つに分裂してしまったとのこと。
分裂というのも語弊があるのでしょうか、

包括宗教法人世界救世教」のもとに「世界救世教いづのめ教団」、「東方之光」、「世界救世教主之光教団」の三つの非包括法人の体制になっております


とのこと。

「日本ばちかん巡り」発刊(再発刊)にあたって


(略)
情報化社会の今日、12年前の記事があたかも現状のごとく再掲載されますことは、本教関係者はじめ読者に対して誤った情報を発信することであり、本教に関する記事の掲載中止または再取材を申し入れましたが受け入れられず、本教にとってはまことに遺憾なこととなりました。
従って、現状と大きく相違し、読者に誤解を与えかねない内容のうち、どうしても看過できないものについて、次の通り説明を加えご理解を願うしだいであります。
(略)
なお、この記事は全体的に興味本位ととられるような表現の目立つ内容であり、説明の必要を感じますが、この二項(略した部分)の説明をもって私共の真意と活動をご理解いただければ幸いであります。

世界救世教 広報プロジェクト
世界救世教−あまりに天国的な【神奈川県箱根町・静岡県熱海市】1990年)


いやあ、まったくごもっとも!
全ての教団からこのような(「全体的に興味本位ととられるような表現の目立つ内容であり、説明の必要を感じます」)苦情が出てもおかしくない。
まったくもって「応じてくれた各教団の度量はたたえられていい」。
単行本化にあたって、たぶん全教団に許可をもらいにいったのだと思うが、ほかの教団でも、注釈一覧に「教団からのコメント」が散見される。単に補足してくれているものも含めて。


「興味本位ととられるような表現」の一例を挙げよう。
(私が個人的に、そうとられてもしかたがない、と思った例です)


善隣会(教)

やります−。善隣会の信者は、キリスト教徒のアーメンのように、ことあるごとにこの唱えことばを口にする(と文献や資料にはある)。しかし、私はまだ見たことがない。
(略。みせてほしいと頼む)
「ええ、いいですよ」
Mさんは、いうがはやいか「やります」の構えをした。この唱えことばも独特だが、そのときにするポーズは、さらにもうひとつユニークだった。右手は肘から直角に曲げてまっすぐに立て、左手は腹の前で水平に構える。ようするに、ウルトラマンのあの格好である。
(略)
ありがとうございました。私は丁重に礼をいってから、こうつけくわえた。でも、それ、なにかに似ていませんか。
ウルトラマンですか?でもちがいますよ」
Mさんは真面目な顔で首を横に振る。
「いいですか、ウルトラマンはこうなんです」
そして、再びやりますの構えをすると、今度は水平に構えた左手の手のひら(いままでは上向き)をくるりと返して下に向けた。その格好で私のほうに向き直ると、Mさんはにっこり笑いながら、スペシウム光線を発射するのだった。
(善隣会(教)−おすがり王国の空高く【福岡県筑紫野市】1991年)


同じく善隣会の「御神尊感謝大祭(ひょっとこ祭り)」の様子。

いやはや、たいへんな事態である。手振り腰振りもたくみに、ヒゲの教主がスパンコールのハッピをひるがえして踊る、踊る。教主が踊れば、お供をするハッピ姿の本部職員や教師たちも大いに奮い立って踊る、踊る。ステージの下では、「ぜんりんっ子」の子どもたちも踊りだして、秋の日がふりそそぐ善隣プラザに、たちまち「笑わんかい」と「ワッハッハー」のやります世界が出現した。
ところが、その踊りの輪のなかでひとり、「三代さま」だけがなぜかさめている。いちおうその身振りはしているものの、ヤレヤレという感じで、さっぱり踊りに身が入っていない。
10分後、ひょっとこ音頭からようやく開放されて、テントの裏で煙草に火をつけている道臣さま(「三代さま」)に、私はそっと声をかけた。
 マジメに踊ってませんでしたね?
「いやあ、恥ずかしくって・・・。酔っぱらってないと、あれはとてもできませんよ」
長身の王子は、てれ笑いをしながら、少しあごを突き出して、いまどきの若者が「かんべんしてくださいよー」というときの顔をしていった。
「だから、みんなと目があわないように、ずっと下むいて踊ってたんです・・・」
しかし、考えてみれば、いまやひょっとこ踊りの名手であるかのお父上だって、学生時代はモダンジャズにいれあげていたのである。ま、王子もそのうち慣れることだろう。
会釈をして立ち去ってゆく三代さまの背中を見送りながら、私がそんなことを考えていると、いれちがいにテントのなかからギンギン衣装の教主が小走りに出てきた。おやトイレにでもいらっしゃるのだろうか?教主は私をみつけると、にっと笑いながら「どお、面白いだろ?」と右手の拇指を立ててみせ、そしてそのまま裏手のほうへひょいひょいと駆けてゆく。どうやらこちらはまだ、ひょうっとこ音頭のノリが継続中のようである。
(善隣会(教)−おすがり王国の空高く【福岡県筑紫野市】1991年)


すばらしい!
いやあ、いいですね〜。
教団もお祭りも素晴らしいし、その素晴らしさの伝わってくるルポではあるけど、いいのか、こんなふうに書いて・・・?


あ、この「興味本位ととられるような表現」をやんわり怒られているところを発見!
崇教真光には外国人の信者もいて、フランスからご奉仕にやってこられたと思しき人々に関する記述。

いい年をした西洋人が、しかも集団で雑巾がけをしているところというのは、なかなか奇妙な光景である。見ようと思っても、めったに見られるものではない。
それをかたわらに立って眺めている日本人の私のほうが、なんだか落ちつかない。私の頭のなかに、ふと、「抑留敵国民虐待」「BC級戦犯」といった、不吉な活字が浮かんだ。
崇教真光−種人よ起て 手をかざせ【岐阜県高山市】1992年)

やめなさい!
私でもそう思う。
案の定、

[注3]教団からのコメント−194頁の4行目の「抑留敵国民虐待」、「BC級戦犯」は、当教団と一切関わりあいがございません。崇教真光は、愛知の世界の創造、人類恒久平和を目指しております。したがって戦争の問題とは何ら関わりなく、悩み苦しむ一人でも多くの方々が救われ、幸せになってゆくことを願っております。
崇教真光−種人よ起て 手をかざせ【岐阜県高山市】1992年)


もちろんです!わかります。
著者が悪いよ・・・
おもしろいけど。
茶化したくなるのもわかるし、これによって教団の方の真摯な姿が垣間見れてほのぼのとした気持ちになるのですが、不愉快に思う読者がいても無理はない。


つづきます。
〜芋蔓〜日本ばちかん巡り(その2)へ〜


文庫はこちら。