芋蔓読書

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行に生きる―密教行者の体験日記





以前の記事(空海の夢)にも描きましたが、昔、祖母の家の台所で護摩を焚いたり、私におまじないをしてくれた「先生」とは何者だったのだろう、と急に気になってきた。うちは浄土真宗ですが、「先生」のお寺はどう見ても浄土真宗じゃない。「お不動さん」と呼んでいたし・・・。
父に聞くと、法相宗とのこと。
そのときはそれで納得したが、ん?法相宗?!奈良仏教の?
法相宗といえば、「それは宗教なの?哲学では?」という学究的なイメージで、密教を集大成した空海さんより前からある宗派だけど、そんなに密教っぽいものだっけ・・・?
祖母によると、「先生」は厳しい修行をされて、、超能力的な、宗教的なパワーを持っているとのこと(祖母が何と表現したか忘れたけど)。
法相宗の修行ってなんでしょうか?
ネットでさらっと検索するかぎりでは、あまりよくわからなかったのですが、日本の仏教はかなり古くから神道というか修験道と一体化していたということなので、きっと山伏的な修行に違いないと思いました。というか、「先生はお山で修行された」と聞いたような気もする。。。
そんなこんなでふんわりと、仏教の修行や修験道について(広いわ!)読んでみようと思っているところです。

そこで、まずはこの本「行に生きる―密教行者の体験日記」から。
仏教の修行といえば、虚空蔵求聞持法。
お大師さん(空海)が唐に渡る前に修し、室戸岬の洞窟で明けの明星が口に飛び込んできたというあの修行です。その修行をされた現代のお坊さんの記録です。
まずは序文から経緯を見てみます。

序(東京大学名誉教授 玉城康四郎)
田原亮演師は、もともと在家の人である。高知大学農学部農業工学科を卒業し、大阪の民間会社に、技術者として就職した。仏縁あって、時々禅寺をたずねて、参禅を続けていたが、本格的に仏道を究めようと決意し、ついに真言宗高野山の修行専修学院に入り、出家得度した。それ以来、命懸けの大修行である求聞持法、八千枚護摩を行ずること11回、その外、二、三週間にわたるさまざまな行法を修して今日に及んでいる。


在家の方が、なぜ悟りを目指して求聞持法や八千枚護摩を行ずることになったのでしょうか。ごく普通に技術職の道を歩まれていた方が、なぜ社会人になってから仏道に・・・。
書き出しを読んでみますと・・・

悟りを求めたいと強く心に念じたのは、高野山専修学院での修行中のことでした。


そこから?!
まずは、なぜ高野山専修学院に入ることになったのか、というところが疑問ですよね?(それは最後まで分からぬままです)
どうしてサラリーマンが出家しようと思い立つのか、それがそもそも分からないのですが、著者にとっては、悟りを求めたいと思わないのが不思議なようです。
高野山においても、志を同じくする人に会えないとなげいておられます。


日本の仏教の形態は、現世利益と葬式、法事を含む儀式が主である。仏教の本質を求める力ははなはだ弱い。その一つの因に、日本の四季が関係しているように思える。暑くても、いずれ涼しくなる。寒くても、いずれ暖かくなる。このようなことが、宗教心にまで影響を与えているのではなかろうか。例えば、今は苦しくても、そのうち何とかなるだろうという安易な感覚が、日本人にあるのではなかろうか。このことが、本質を求めていくと合う心を弱めているのではないかと思う。


仏教の本質が分からないのでなんともいえないですが、生老病死も季節のようなもの、四季のうつろいと同じ、ということで、特段の疑問をもたないかもですね。生老病死を自然なこととして受け入れ、「そのうち何とかなるだろう」ということを心の支えにすることは安易・怠惰に見えるけど、理想的といえば理想的な気もしますが・・・
このあたりを考えだすと長くなるので、またの機会に。


この本の内容は、求聞持法と八千枚護摩の修行の最中の日記(ツイッターのように短い)が大半で、臨場感にあふれています。この本に倣って自分もやってみよう、というようなハウツー本ではありませんが、修行を通しての心の動きが分かります。
求聞持法を修したからといって悟れるわけでないとはなんとなく分かっていたつもりですが、一生の間に何回もやるものだとは思いませんでした。途中で挫折したり、死んでしまったりするような厳しい修行だそうなので、普通は何回もするものではないという認識自体は間違っていないとは思いますが。


そして、前々から疑問だったのですが、悟りとは何か、悟った後はどうなるのか、そのことがちょっと分かるような気がします。それについては、著者が師と崇める玉城康四郎先生(先ほどの序文を書かれた東大名誉教授)の御著書を読んでからにしましょう。
それから、もう一つ前々から疑問だったこと。人は当然悟りを目指してしかるべきだとして、「実際問題、皆が悟りを目指してると、人類は滅亡するでしかし」という問題について。

世間の中での修行は困難を伴います。たとえいくら苦しい修行でも、世間を離れた山中での修行の方が楽です。(中略)
私の場合、世間の中で人々と交わりながら行じなければなりませんでした。その上、真言宗内で明眼の師に出会うこともありませんでした。


世間の中といっても、たぶん、お寺で、お坊さんとして、ということで、サラリーマンよりは修行しやすい環境だったのではないかと想像しますが、でも、世俗的な雑用をこなしながらも悟りを開くことは可能だ、ということなんですね。
この著者のこれより後に刊行された著書のタイトルが「在家仏道入門」なので、とても気になります。


当初の目的である法相宗の修行、修行で身につけるパワー(加持祈祷の技)については不明なままですが、かねてからの疑問に少し触れることができたようで、おもしろかったです。