芋蔓読書

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 日本人の心


〜芋蔓〜「河合隼雄全対話〈10〉心の科学と宗教」から〜


河合 隼雄(潮出版社
日本人の心
日本人の心


伊東先生との対談は、「河合隼雄全対話〈10〉心の科学と宗教」とまったく同一のものだった。
でも、それ以外のもいろいろおもしろい!
司馬遼太郎と対談してるというのもちょっと意外だった。あとがきで、「私は勝手に司馬さんとは話が合わないのではないかと思っていたので」とあるので、それは皆の印象なのかも。


これもいろいろおもしろかったので、引用しまくりです。

日本人が問われるもの 現代における「神話」の役割 河合隼雄

日本人はその行動を律するとき、倫理観よりも美意識によっている方が多いのではなかろうか。(中略)
ここで美意識が登場するのはどうしてだろう。おそらく、日本人の宗教性は偉大な存在、神に対して生じるのではなく、偉大なる調和に対して生じるのではなかろうか。一神教における神という一者、と自分の関係のなかで考えるのではなく、自分をも含めた全体のもつ調和を大切にする。その調和の感覚を美意識と表現していると思われる。
こんなわけで、日本人は宗教性が低いとか齢というのではなく、きわめて特異な形で宗教性を持っている。このことは、他の文化の人々と付き合うときにしっかりと認識しておかねばならない。


石毛直道さんとの対談。知らない人だったので、今調べた。民俗学博物館の館長さんなのか〜。
初出が「月刊みんぱく」なので納得です。食文化をご研究なのか。おもしろそう!

石毛:農業と言うのをかんがえたときに、これは亡くなった栽培植物学者の中尾佐助さんがおっしゃったことですが、21世紀には農業はきっと最高のホビーになるだろうと。
河合:まったくその通りですね。すごい予測ですね。
石毛:たしかに、いまの日本の農業をみたら、経営としての農業はあまりうまくいっていませんが、しかし兼業農家がこれだけおおく、片手間で農業をやっている。それから農業とまではいかずとも、けっこうみんな作物を育てている。ものが育っていくのをみていることほど、生きがいにつながることはない。


河合:もったいないというのは日本人の倫理的・宗教的観念の中核なんですけど、いまはものがいっぱいあるから、それが通用しなくなって壊れてるんですよ。けっきょく、日本人は生活イコール宗教だったでしょう。その生活がかわってきたから、宗教はなくなりつつある。


河合:われわれおとながおとなになれずに若者みたいなことをいうから、いまの若者が老成してくるんです。(中略)
編集(小長谷有紀):やっぱり、ほんとうに輝いているおとなというのは、子どものころの部分をいかに自分の意思で維持できるかと言うところにかかってくるんじゃないでしょうか。
河合:そうです。そこがむかしとちがうんです。ご存知のように、むかしの世界は子どもとおとなしかいなかったんですね。イニシエーションでみなおとなになるか、死んでしまうか。ところがいまの時代は、おとなも子どもでありうるわけです。だから、おとながいかに子ども性を保持するかという問題を、まちがって子どものままのおとながいたりする。


石毛:むかしは反抗期とよばれて、思春期あたりに親とかに反抗して、それではじめて自分ができてくるという話がよくあったんですが、ああいった自我というのはほんとうに必要でしょうか。
河合:自我が必要だというのが、西洋近代の発想ですね。いまのところ近代国家の人はみなそれが必要であるし、それを確立することをよしとしている。だけど本気でかんがえれば、これは21世紀のすごくおもしろい問題になる。
石毛:自分をわかることは必要だろうとおもう。しかしそれが、親にたいする反抗みたいなものでできるというのは西洋的な自我であって。
河合:そうです。その通りです。
石毛:なにかべつの自我ってできないでしょうか。
河合:極端にいうと自我が確立できなくたってええやないかというかんがえ方があるんです。(後略)


そうだ!この話題!全文書き写すハメになってしまうp.78〜87とかずっとおもしろいです。


司馬遼太郎との対談

河合:日本人には、闘わないことが平和でいいことだという前提があります。闘わないでいれば、理想の世界ができると思っているわけです。ですから平和のためならちょっとくらいごまかしてもいいではないかという気持ちが潜んでいます。ところがあちら(アメリカ)は、フェアでさえあれば戦うことはいいことで、戦えば正しいものが勝つという考え方なんですね。

つづき

司馬:(親鸞の)弟子の唯円という人が「南無阿弥陀仏を唱えれば、踊りたくなるような喜びの心がわいてくるそうですが、私はすこしもわいてきません。極楽浄土にもいそいでゆこうという気も起こりません」というと、親鸞さんは「唯円房、私も同じだ」といった。


悟りって難しいな。


鶴見俊輔との対談

河合:こうみてくると、日本の文化に対して戦後が付け加えた部分とは一体何だったのだろうか。


大江健三郎との対談

河合:われわれが文学を読むときは全人的に読んでるわけです。間違う人は大江さんの提出された人間がモデルだと思うんです。そうじゃなくて、大江さんの提出された人物と私という人間が全人的にかかわって私の心の中に生じてきたものはその文学が私の中に惹き起こしたものというんでしょうか、それが意味を持つわけでしょう。そういう点で心理療法と文学はすごく似てるなと思うんですけども。


大江:ずっと永く純文学は読まれないといわれてきました。しかしこのところ幾人かの若い作家は非常によく読まれている。あれもあきらかに文学的現象だと思います。村上春樹さんが読まれること、吉本ばななさんが読まれること、両方とも単なる流行ではなくて文学的な現象だと思ってるわけです。僕たち先輩小説家は、自分たちの作品が読まれないということで明らかに敗れていると自覚する必要があると思っておりますけれども。
そういうことをまず認めて、かれらの作品をこちらも読んで思うことは、そこである個人的な症例が果てしなくしゃべられていることですね。村上さんもしゃべっているし、吉本さんもしゃべっています。むしろしゃべっているだけじゃないでしょうかね。ほかに何もないような気もする(笑)。しかし、それはまさに文学的なものに違いありません。現にいま、きわめて多数の何も言葉をしゃべらない和解人がいるわけですから、失語症みたいな。ゲームだけやっていたり、文章を表現するよりは機械で表現したりしている人たちがいるんですから。やはり村上さんや吉本さんたちがなしとげたことは、大きい文学的な現象だと思います。


ちょうど村上春樹の小説(「ねじまき鳥クロニクル」)をよみはじめていた私にとっては、「個人的な症例が果てしなくしゃべられている。むしろしゃべっているだけ」と言っているのがとてもおもしろい。

大江:小林(秀雄)さんが僕に「渡辺一夫さんは気違いだからね」といわれた。僕は怒って反論する、小林さんも持論を研ぎ澄ませて僕に襲いかかるというわけで、僕は人前で泣いたことは生まれてからあまりなかったような気がしますけど、さんざん声を出して泣き始めましてね。みんな見てるし、みっともないと思いながらです。(中略)
その泣いている僕に小林さんが言われたことのひとつがユングの自伝についてです。「きみに何かいいことを言ってあげることができないような気がする。きみにはどうしても渡辺一夫という人が必要だったわけで、そのことについて自分は何も言えないことがどうもよくわかってきた」と言われた。そして、「先ほどの気違い云々を取り消す」と言われたんです。そして、きみはいまどういう本を読んだらいいだろうかとちょっと考えておられて、「ユングの自伝を読んだらいい」といわれました。


大江さんって饒舌な人なんだな〜。で、情熱的な人なんだな〜。イメージと違う。
あとがきで河合先生が「私の著書を片手に質問されるので、私は卒論試問を受けている気持ちになって必死に話したのを覚えている」といってるように、すごくまとまった話をしていておもしろい。



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