芋蔓読書

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なぜ悟りを目指すべきなのか 新装版―無常を知って無限の自由を獲得する (シリーズ心を育てる本 23)


〜芋蔓〜「希望のしくみ」から〜



「なぜ悟りを目指すべきなのか」
そうだ!それが知りたいんだ!!
まずは、「悟り」とは何か。

じつは経典には、日本語の「悟り」という言葉に合致するひとつの決まった言葉がないのです。


ええー。そこから?

悟りとは、ごく簡単に一言でいうならば、真理を会得した最高の境地ということになるのですが、いうまでもなくそれはお釈迦さまの教えを実践することによって非常にわずかの人だけが達することのできる境地なのです。ですから、それを言葉で説明するのはほとんど不可能ですし、またそれができたとしても普通の人には到底理解できないことです。


う、うん・・・

仏教を生涯かけて研究している学者でさえも、解脱しようとはしないのです。(中略)ですから人を解脱へ向けて説得することはできません。もし本気になって覚悟を決めるなら、それは可能なのですけれども。


そうなんですよね。なぜ、悟りを目指さないのか?
でも、上の引用を見ると、目指しても決して到達できない道ではないですか!


あとは、よくは分かりませんでした。たぶん、目指そうという姿勢が大事だということだと思いますが・・・それとも、初期の悟り段階には簡単に達することができると言ってるのか?


同じに悟ったといっても、在家の人と出家の人とでははっきりした違いがあるのですが、この流れへの入り方に差があることから来ています。出家者は、この流れの中にいて、そして流れの中にいて、そして流れていくのですが、在家の人はそうはいきません。収入の道を得て家族を養わなければならないし、子どもがいるならその面倒もみなければいけない。いろいろな人間関係の中で生きていかなければならないわけです。けれども悟った人は、それもほどほどにやるだけのことです。そしてそんなふうに生きるのも馬鹿馬鹿しくなったら、その人は出家するでしょう。本当に悟った人は、やっぱり出家への道をたどることになるのです。


ん?悟った後に出家するのか?在家ではなかなか悟れない、という話ではないのか?
うーむ・・・よく分かりませんでした。


ところで、気になったことがひとつ。

満たされた心ではなく不完全な心のままで死ぬので、輪廻転生してしまうのです。


以前読んだところ(「ブッダ−大人になる道」)では、「知恵・真理を求める者は、真実をありのままに観察しなくてはならないのです。」ということだってのでは?輪廻転生は観察してれば分かる真実だということなのでしょうか。ダライラマもとても理性的で近代的にお話をされるとのことですが、輪廻転生のことだけは、普通に信じているような口ぶりだとうです。
何かの比喩なのか?
仏教における輪廻転生の位置づけってどうなっているのでしょうか。


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