芋蔓読書

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希望のしくみ


〜芋蔓〜「ブッダ―大人になる道」から〜


養老 孟司,アルボムッレ・スマナサーラ / 宝島社 (2004/12/8)
希望のしくみ


スマナサーラさんので読みたいのがあったので、本棚をうろうろしていたときに見つけた本。
養老先生と対談してるのか〜。
「はじめに」で養老先生はこんなふうに言っておられます。

私は近代科学を学んで、いまに至ります。
ですから、中村元先生がお書きになった原始仏教経典の解説を読んだときには、びっくりしました。
「なんだ、俺の考えていたことは、お経じゃないか」
そう思ったのです。近代科学の方法を使って自分の頭で考えたら、2500年前にお釈迦さんが同じようなことを言っていた。私が驚くのも当然でしょう。


この本の中で、その類似点も多々挙げられていますが、おもしろいと思ったのが、
養老先生は、「脳が外界に出力できるのは、筋肉の収縮だけなんですよ」と。
  出典:養老孟司の<逆さメガネ>PHP新書
で、お釈迦さんは、「歩く、立つ、座る、横たわる、伸ばす、縮む。身体の動きはこれだけである」と言われているらしいです。
  出典:勝利経(スッタニパータ第11)
お釈迦さんがなんでそんなこと言う必要があるのか・・・全体像が分からないから分からない・・・。


スマナサーラ先生はあいかわらず、目からウロコなことを次々おっしゃる。

私は仏教だから、「生きる意味はない」という立場をとっています。


えっ?!
まあ、続きがあって、

慈悲を育てれば、それだけで人生は問題ありません。「まあ、いいんじゃないか」という気分で軽々と生きていられる。


たぶん、生きる意味とかはどうでもよく、いかに生きるかが大事なんだ、ということが言いたいのではないかと思うのですが、「生きる意味はない」とはまた先鋭的な感じです。

仏教と科学は、考え方が違いますからね。そもそも仏教では、物質をたんなるいくつかのエネルギーの波動としか見ていないんですよ。物質も物質でないと考えているんです。


いや・・・一部の科学ではそんな感じの見方をしているような気がしますが・・・。
でも、なぜお釈迦様はそんなこと考えるの?

「もういい、やめた」というのは、一つの幸せだと思いますよ。

お釈迦様は、「人間の求める幸せ」は「苦しみ」を違う言葉で表現しただけだ、とおっしゃったんですよ。
「苦しみ」にいわゆる「期待・希望」を入れた表現です。
(中略)
幸福と思ってもその状態に期待・希望を足してみると、不幸という結果になる。不幸と言う状態に期待・希望を足すと、さらに不幸、という結果になる。ですから、期待・希望が問題です。


期待・希望をもつな、と。
(「期待・希望」とは仏教用語で「渇愛」と注がある)
「希望」という言葉がこれほどまでに否定的に使われている例は見たことがないですね・・・。
それはさておき、私が一番おもしろいと思ったのは下記の話。


瞑想することによって、「一切の概念を捨てる」、執着がない、という状態をつくる、という話の中で、「私たちが知っている人で、そういう人はいませんか?」という問いに対する答えがおもしろい!
誰かと言ったらイチローですよ。
さすが野球界の求道者ですね。

彼は自分の仕事に徹底的に集中していて、邪魔になる雑念を排除しているんでしょう。だから彼には、ボールがスローモーションで見えると思います。
(中略)
イチロー選手を見ると、なんとなく「インパクト」を感じるでしょう?あれはからだ全体に集中力がいきわたっているからだと思います。
(中略)
そうやって毎日自分の仕事に集中しているから、人格的にも成長してくでしょうね。
(中略)
プロの選手として、野球に集中することにおいては、最高の境地に達しているでしょうね。
でもそれは、あくまでも一つの専門的な行為に限っての話です。だからイチローはものすごく早いタマが打てるかもしれませんが、日常生活ではうまくいかないかもしれませんよ。


だ、だめじゃん!でもまあ言いたいことは分かる。
スマナサーラ先生ご推奨の瞑想法(ヴィパッサナー瞑想)は興味深いです。
興味深いならそれを紹介しろ!って感じですね・・・。でもしない。



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スマナサーラ先生のはタイトルから魅力的だ。
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