芋蔓読書

はてなダイアリーから引っ越しました

仏教と精神分析 (レグルス文庫)


対談ですが、どちらも知りません。
岸田秀という人は、「ものぐさ精神分析」という本を書いた有名な精神分析関係の人、ということは知ってはいましたが、読んだことはありません。
河合隼雄ユング派ですが、この方は、この本を読むとフロイト派みたいですね。


全体としてあまり盛り上がらなかった(私の中で)。
岸田氏が仏教について質問する形式で対談が進むが、私がいうのもなんだが・・・岸田氏が仏教についてあまりにも何もご存知ないような・・・
知らなくてもさしつかえないけど、興味もないような・・・。
逆に、仏教学者の三枝氏は岸田氏の説に興味があるようなので、三枝氏が岸田氏に質問するようなノリにしたらいいのに・・・
と思っていたら、後半はそうなった!

岸田:ヨーロッパ人自身は自我の絶対性ということになんら疑問を持っていない。ところが、自我が必ずしも常に健全に理性的に働くわけではないので、いわば、自我の病としての神経症があるんですね。
(中略)
自我が病むということ−−−自我というのは必ずしも絶対的なものじゃない、非常に不安定でいろいろな問題を起こす。そういうことを見ていると、結局、自我とは何かということが、当然問題になり、それを突き詰めていくと、近代ヨーロッパが当然の前提としている「自我の絶対性」ということが、疑問視されざるを得なくなってきたんじゃないか。


(ずーっと略)


岸田:フロイトが理性の回復を説いたように、ヨーロッパやアメリカの精神分析者というのは、何かを再建しようとするんですね。
(中略)
エリクソンは自己のアイデンティティということを問題にするのですが、神経症の治療とアイデンティティの確立を結び付けているわけで、自分のアイデンティティを発見し確立することが、神経症の克服になるというわけです。


自我の確立が、少なくともヨーロッパではキリスト教ととても関係があって、神様の絶対性が揺らぐから、自我も揺らぐ、みたいな話ですね。
一般的な話だと思いますが、私は最近だんだん違うような気がしてきました。
じゃあ、どういう気がしているのか、といわれると答えはないですが、「生産」ということと関係あると思います。
近代化した結果、働かなくても生きていける、人口を増やす必要性も特にない、という状況が人を病ませる・・・自我を揺るがすのでは、と。
時期が一致しているのが偶然か必然かは分かりませんが、神が死んだから自我がおかしくなった、という因果関係は納得いかないなー。
20世紀の日本、21世紀の中国も、宗教とは無関係にこういう状況じゃないのかな。

しかし、ヨーロッパ人にとっても、自我の確立は非常に作為的なものなんですよね。長い歴史と伝統の上に個人主義とか自我の確立があるわけですけれども、もっと人間というものを考えて、本質的なことを問題にすれば、自我ってのは作りものですからね。しかし、ヨーロッパ人はあまりにも伝統の中にどっぷり漬かっているので、自我は作りものであるということを、あまり自覚しないでしょうがね。(中略)
ところが日本の場合、家の否定とか自我の確立とか個人主義とかは、みんな明治以後、とくにまた戦後のことでね。無理して取ってつけたということがはっきりしているんでね。だから、自我が作りものであるという面が、ヨーロッパより日本の場合に、露骨にはっきりしているんじゃないですか。


絶対主義ではない仏教が、何か打開策を与えるのでしょうか。
というようなことを期待しているのですが・・・。


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